昔の日記 3    2003年 5月〜2000年?

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5月8日(木)

 昨日の夜、下の娘(6歳)がサービス券を発行していた。「パパのゆ びもみけん」というのをくれた。さっそく、「はい、お願いしま す」と言って券を渡すと、早速両手の指を10回ずつもんでくれた。(私は、指の爪を揉んでもらうのが好きなのです。妻にしてもらうのを娘は見ているからで しょう。)「おう!気持ちいい!」と言ってうれしがると、娘も「うふふふ。」とうれしそう。

 もっと券を作ろうとするから、「あのね、スキスキ券というのも良いよ。」どんなの?と聞くからやって見せた。「しょうこちゃん、すきすきすきすきすきす き
すきすきすきすきすきすき、だーい好き!」というと、満面に笑顔で、「うん、それたのしい!」、「ママに やってあげてごらん。」と言うと、早速妻に向かって「ママ、すきすき すきすきすきすきすきすきすきすきすき すき、だーい好き!」、

 妻もうれしそうに「うん、とってもうれしいわね。」
 ぼくは、落ち込んだときにこの券を使うとしよう。「パパ、
すきすき すきすきすきすきすきすきすきすきすき すき、だーい好き!」と娘に言われたら、落ち込みもすっ飛ぶだろう。

 TA心理学(交流分析)では、このような親密な言葉かけを「プラスの無条件のストローク」と呼んで奨励している。「プラスの無条件のストローク」は人間 に活力を与え、「マイナスの無条件のストローク」は人からエネルギーを奪い、与える人からも共同体感覚に対する近さを失わせる。

 
いじめや、制限なしの嫌悪感の表明などの「マイナスの無条件のスト ローク」は、人を共同体から遠ざける。 逆に、「すきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすきすき、だーい好き!」 と言ってくれる構成員のいる共同体に対する信頼感や安心感や貢献しようと思う気持ちは高まる。

 このような共同体感覚は人に生まれつきのものだが、子育てなどによって強化されると、とても強力になり、家族に対してだけでなく、あらゆる共同体に対し て無条件の親切を行おうという意欲が生まれる。

 アドラーは、TA心理学が生まれるずっと以前から、「プラスの無条件のストローク」のことを「勇気づけ」と呼び、これを、全世界の子どもたちに与えるよ うに、教育分野に力を入れてきた。アドラーが世界最初の児童相談所を創ったのは、第一次世界大戦で勇気を奪われた子どもたちを勇気づけるためだったので す。

 このように、どのような心理学であろうと、どのようなカウンセリングであろうと、それが人間的で実際的であれば、その基盤にアドラー心理学の理論を持っ てくることが可能です。アドラー心理学はメタ心理学なのです。


5月3日(土)


 今、河合隼雄先生(日本的伝統にしたがって尊敬する人には先生とつ けることにしました)のユング心理学入門を読んでいます。ユン グ心理学の教科書は読みましたが、日本における原点を読ませてもらおうと思ったんです。

 河合先生の本を読む中で、ユング心理学というのは、フロイトの精神分析学とアドラーの個人心理学の影響のもとに発達をしてきた心理学なんだなということ がよく分かりました。直接的な影響という意味ではなくて、間接的な影響という意味ですけども。

 神経症の人間を理解するのに、フロイト的説明の仕方、アドラー的説明の仕方、二つの説明の仕方が可能です。河合さんによるとユングは「二人の巨人が二つ の道筋によって無意識の中を探求しようとしたことを高く評価している。」しかし一方、ユングは「無意識の中に光りのあるように指摘しようと努めた」と書い てらっしゃる。

 確かに、アドラーの人間理解を河合先生が書いてらっしゃるように「権力への意思(will to power)」とのみとらえれば、フロイトとアドラーの違いは単なる無意識の解釈の違いとしか認識されなかっただろうなと思いました。

 私はアドラー心理学のフロイト派との決定的相違は、「全体論的人間理解」にあると思っています。(もちろん目的論も違いますが)フロイトは多元論的に人 間を理解していたから、「リビドーやタナトスからなるエス と 自我 と 超自我という三つの機能がせめぎ合い、葛藤しあい結論を出す」というきわめて多 元論的な人間解釈をしたわけです。

 アドラーは「心の中で劣等感とそれを克服しようとする権力への意思が葛藤しあい」などという、多元論的な考えを持っていたのではないのです。人間を一つ の分割できない「個人」としてとらえ、その個人が自分の目的に向かってどのような作戦をとって生きようとしているかということを問題にしたのです。河合先 生も書いてらっしゃるように、だからアドラー派は、後に無意識さえもあまり「意識しなく」なったのです。だって、人間個人が自分自身で「意識」したりしな かったりしているだけですから、無意識が勝手にうごめいているわけではないと考えたのです。

 カウンセリングの中で良くあることなのですが、クライエントの方が夢を持ってきてらっしゃて、「どうでしょう?」とおっしゃる。たいていはオーソドック スなアドラー派の夢を手がかりにした人生スタイル分析をする(ほとんど全員、時には涙ぐみながら「そうです、私はそう思っています。そのように生きてきま した。」と頷かれます)のですが、たまに、「あ、これはユングの言う『無意識からのお知らせ』のような夢だな?」という夢があります。

 そんなときは私は、場合によって違いますが、「あなたが変わると言うことの予兆かもしれませんね。」とコメントします。クライエントの行動の変化を後押 しすると思うからです。たいていは、望んでいた変化が起こります。

 アドラー派から言わせてもらうと、記憶している夢は人生スタイルに合致しているから記憶しているのです。(人間は一晩のうちにたくさんの夢を見ます。何 度もあるレム睡眠の時に見ています。しかし、覚えている夢はごく一部です。)ですから、もし見る夢ががらりと変わったら、それは人生スタイルが変わったこ とを意味します。当然行動も変わるわけです。一変した夢を見る前に、彼は「個人」として「人生スタイル」を変える決断をして、そのために彼は今までと違う 夢を記憶したのです。決断が先であって、夢は後です。

 夢が無意識からの「お知らせ」だというユングの考え。なるほど、ユングが「無意識に光りのあることを指摘しようと努めた」というのがよく分かります。ア ドラー的な夢のとらえ方が「味気ない」と思われる方もたくさんおられるだろうと思います。夢は無意識からの予言であったり、忠告であったりするという考え の魅力は私にも分かります。これは、どちらが正しいと言うよりも、人間の好みの問題かもしれません。

 セラピストは自分の依って立つパラダイムを持ちつつも、異なるパラダイムの見方も「このような見方・考え方もあるのか」と知っておいても良いのではない かと思っています。クライエントによっては、異なるパラダイム的コメントをしたほうが良いこともあるように思います。セラピスト自身に好みがあって、一定 のパラダイムのもとでセラピーをしているように、クライエントにも一人一人、「生まれつき」と「生きてきた人生」などからくる好みがあって、そのクライエ ントの好みに共感して、ある程度つきあうこともセラピストの仕事だと思うのです。

 「アドラー心理学的見方、考え方をしなけりゃ、援助しないぞ。」というのでは、各臨床心理学パラダイムが困っている人の援助を目的に創り上げられたの に、本末転倒になってしまうからです。

 それに、異なる見方があるということはそれはそれで意味があると思うのです。無意識の持つ圧倒的な力については、みんながみんなアドラー的とらえ方をし ていては、気づかなかった力ではないでしょうか?「普遍的無意識」なんてものを考えたユングはやっぱり天才だなと思います。それは、ユングという異なる個 性があったからこそ生まれたものと思えます。

 同じようにフロイトがいなかったら、今の心理療法の流れは生まれなかったでしょう。様々な「防衛機制」の発見だって、多元論的な見方をしたから、あんな に細かく分析できなかったのではないでしょうか。全体論的に見るのが正しくて多元論的に見るのは間違っているということではなくて、様々な見方があって、 おたがいに影響し、批判しあって発展していると思えます。そう思うと、どんな個性もどんなパラダイムも大事に思えます。

 フロイトもアドラーも真っ向から否定しなかったユングは、ある意味ですごいかも。

4月26日(土)

 元生徒から相談があった。大学に行っている子です。
 会って相談受けようか?と言ったら、そこまではないと言います。
 幸せになる考え方をメールで少し教えました。

 一つ、人間を減点方式で見ないで、加点方式で見る。
 自分を責めちゃう人って、自分のことを100点満点の完全な自分から減点方式で見ているんだよね。「ああ、ここが足らない。」とか、「何で他人はできる のに私はできないんだ。」とか、「こんなことで悩むなんて。」とか、「私の運命って、どうしてこんなに悪いんだ。」とか、どんなことでも減点の対象になっ て、結局自己嫌悪に陥るのです。

 そうじゃなくて、0点の自分から加点方式で見る。
 0点の自分=死んでいる自分。「今日も生きている。なんて自分はすごいんだ。」「なんと、朝起きて、学校に行った。すばらしい、言葉もない!」「途中寝 たけど、抜け出さずに講義を受けた。私って偉い!」というように、どんな行動でも加点の対象になるのです。

 自分の境遇を加点するやり方もあります。まず、最低の境遇を想像します。高校で一応勉強ができたのに、家の都合で進学できなかった。就職が無くて、仕方 が無く夜の仕事を始めた。(夜の仕事への偏見ではありません。この人の望みの仕事じゃないという意味。)そのうちに、やくざの男についつかまったしまっ た。弱みを握られて、お金を貢がされるようになった。怖くて逃げられない。
 そういう自分じゃなくて、今、一応大学に通っている自分。そんな、すばらしい境遇の自分にできることは?
 と考えるのです。

 元生徒から、すっきりしましたという感謝のメールが来ました。

 ぼくも感謝したいです。自分のこと、周囲の人間のことを加点方式でとらえることを再認識させてくれたから。

4月26日(土) 転記

 人は自分の人生に対する態度を「人生スタイル」というものに書き込 んで使用します。「人生スタイル」には、自分についての記述、 他人についての記述、自分が生きてるこの世界についての記述があります。「人生スタイル」は自己イメージ、他人イメージ、世界イメージに関する信念体系な のです。人は、あらゆる物事が、この「人生スタイル」に沿って起こるように絶えず努力します。これは無意識的努力であり、「人生スタイル」に合わないもの は捨てられ、忘れ去られます。そして、「人生スタイル」に適合するものだけが、スポットライトを浴び、記憶されます。「人生スタイル」に適合しない自分像 は認識されず、適合しない他人像は忘れられ、適合しない世界像は一顧もされません。ほんの一部にしか過ぎない「適合する経験」が強烈に記憶化され、「人生 スタイル」は変わらないように強化されるのです。人は、どんなことが起きようとも、「やっぱり、自分は・他人は・人生はこういうものなんだ。」と納得する ために経験を積むのです。
 だからこそ、その人の「人生スタイル」は、その人の最近の強烈なエピソード、記憶している幼児期のエピソード、記憶している夢の分析によって明らかにな るのです。
 「人生スタイル」が固定化する時期は人によって違います。多くの人は幼児期に大部分を固定化します。一部の人が思春期に友人との出会いによって改変しま す。さらに一部の人がパートナーとの出会いによって「人生スタイル」を改変させます。
 最後に、人は、セラピストとの出会いによって「人生スタイル」を改変させるのです。


 4月22日(火) 転記


 優越感っていうのは、劣等感の裏返しなんだよね。いわゆる「補 償」は、ある面での劣等感を、別の面での優越感でごまかすことです。たとえば、私は運動が 全くできなくて(小学校や中学校では、運動のできない子はバカにされるんだよね。)、中学校からお勉強をすることで、運動の劣等感を乗り越えようとしまし た。一時的なごまかしにはなりましたが、乗り越えることなんかできませんでした。精神分析学では「補償」は「自我」の防衛メカニズム(「抑圧」
「合理化」「同一視」「投影」「反動形成」「逃避」「置き換え」「昇 華」の一 つだとしています。まあ、そんな難しい力動なんか想像しないで、単に人間が生きていく作戦としてやっているんだと思えばいいじゃないかな。
 人間は社会的に役に立って初めて、生き甲斐を感じます。これが「共 同体感覚」です。劣等感は共同体感覚によってのみ克服できます。アドラー心理学流の子育ては、この社会的に役に立つ感覚を育てる子育てです。子ど もに、家庭の中で役割を持ってもらい、役割を果たしてくれたことに対して「すごい!」とか「ありがとう!」とか、勇気づけをします。これは、子どもを操作 するためにやっているのではなくて、親自身が持っている「共同体感覚」を子どもにも持って欲しくてやっていることです。最初は意図的にやるかもしれません が、後ではお互いに勇気づけすること(親が勇気づけすると子どもも勇気づけてくれます。)が自然になってきます。(優越感や劣等感を持たないように、ほめ たり、叱ったりしません。簡単に言うと誤解されそうですが、縦の関係でほめたり叱ったりしないのです。詳しくは、ヒューマンギルド21世紀母親研究所で子育て方法講座を受講してください。)
 ある人がやっていることが、共同体感覚でやっているのか、それとも優越感のためにやっているのかはよ く観察すると分かります。別に優越感のために行動しても良いのですが、優越感のためにやっていると幸せにはなりません。


 4月22日(火)

 昨日も夕方、スーパーに夕食の買い物に行った。二人の娘も一緒に行 くというので、三人で手をつないでいった。上の娘は小学校6年 生、下の娘は小学校1年生、小学校に入学したばかりである。

「翔子ちゃん、学校はどう?楽しい?」と聞くと

「うん。楽しいよ。」と答える。

 すると上の子が教えてくれた。「あのね、翔子ちゃんの周りには、たくさん集まって、人気者なんだって。同じクラスの○ちゃんがしょうこちゃんのクラスの お世 話係で教えてくれたよ。」

「そう、お友達がたくさんいるんだ。楽しいね。誰がお友達なの?」

「うん。○ちゃんと○ちゃんと……」

 下の娘は、校区外の保育園から入学したため、クラスに一人も知っている子がいなかった。しかし、心配することはなかったようだ。「遊び」中心の保育園に 入れていてよかった。「子どもにとって遊びこそ最高の学び」という園長方針の園だった。遊びが大好きな下の娘は楽しい雰囲気を出しているのだろう。それ で、たくさんの子ども達が寄ってくるのではないか?

 家に帰って夕食の準備をしていると、上の子が風呂を掃除しだした。声をかける。「景子ちゃん、ありがとう!」

「しょうこちゃんも何かしてくれるとうれしいなあ。」

 すると、掃除機の使い方を姉に教えてもらいながら、リビングの掃除を始めた。「わあ、ありがとう。部屋がきれいになるよ。」

 サラダを作って、煮魚が煮える頃、妻が帰ってきた。「あら、お風呂が沸いている。ありがとう景子ちゃん。今日は早く入れるよ。」と妻は娘に声をかけなが ら、すぐに風呂に入る。その間に料理をテーブルに並べる。

 あがってきた妻に「しょうこちゃんは掃除をしてくれたよ。」というと、下の娘ににっこり笑いかけながら「わあ、だからきれいになっているのね。ありがと う。」と声をかける。

 妻がテーブルの料理を見ながら「今日は魚の煮付けね、おいしそう。」すると、下の娘が「うん。パパはお魚の料理が上手だもんね。」と勇気づけてくれる。 「ありがとうしょうこちゃん。」と私は感謝する。勇気づけられて育った子どもは他人も勇気づけるのが上手なのです。(ちなみに、妻の係は、洗濯と朝食であ る。)


03年4月20日
 静かにいろいろと考え込んでい ると、子どもの頃のいろんな思い出が吹き出して来ます。私の幼 少時は劣等感にさいなまれた時期でした。父親の暴力がいつ発動するか、びくびくとしている日々でもありました。縦の関係を徹底的に刷り込まれましたから、 今でもなかなか競争的意欲が消えません。すぐに誰かと競争しようとします。
 そして、競争に勝とうが負けようが、決まって不安になるのです。
 そんな思いと湧き出てくる感情と同時に感じられる身体感覚に注意を向けます。

 EFTで不快な感情を消します。不快な感情を消した上で、セルフリペアレンティングで自分の不適切な「自我状態」(=態度)と向き合います。

 フロイトやユングもこうやって自分の精神状態と向き合っていたのでしょうか?アードラーも生まれつきからだが弱かったといいます。彼は自分の劣等感とど のように向き合ったのでしょうか?

 6歳の娘が、寄ってきました。「パパあ!もうすぐ私の誕生日だよお。」「よかったねえ。うれしい?」「うん。うれしい。いつおもちゃ買いに行くの?」 「ごめんね。買いに行く暇が無くて。来週行こうね。」「うん!」

 娘たちがいることは、私にとって至福そのものです。アドラー心理学の子育てを知ってから、子育てで悩むことはほとんどなくなりました。

 小学六年生の娘が、頭を私の脇にくっつけてじゃれてきました。スキンシップが欲しいのでしょうか。よしよしと頭を撫でてやると、気持ちよさそうにしてい ます。もうすぐ中学生なんだけどなあ。

03年4月19日

 フロイトもユングも、神経症的な症状や精神的な苦しい渦を、自己分析することで乗り越え た。自分の問題を乗り越えていく過程でその理論が形作 られたって知って、人間フロイト、人間ユングにとても共感を覚えています。理論ではアドラー心理学に親和性を強く感じて、フロイトの多元論的・力動的な精 神構造論やユングの神秘的な傾向を過大に評価する分析心理学にはなじめないのですが、なんか、フロイトもユングも自分と同じ人間だったんだなあと強く感じ ています。アドラーがフロイトの勉強会に参加することがなかったら、インディヴィデュアル心理学individual Psychology(=アドラー心理学、人間を分割できない「個人」(individual)として見る心理学)もできなかったんだし。フロイトやユン グの理論、それから、現代の精神分析理論、ユング心理学をもっとくわしく勉強してみようと思っています。
  でも、同じ時代の他の理論を知れば知るだけ、アドラーの理論がどれだけ時代を超えて卓越していたかが分かってきました。フロイト(今は尊敬していま す)のような天才でも、人間の精神を「超自我」「エス」「自我」の各力動に分割して考えないと理解できなかったんだよね。いろんな症状を「自我の防衛」と してしか理解できなかったんだ。それを、「いやいや、精神と肉体は別々じゃないんだ。」とか、「無意識と意識をわざわざ分けなくてもいいじゃない。あらゆ るものを『個 人』の一つの表れだと考えればいいじゃない。意識しておいた方が都合がいいから意識しているだけだよ。」とか「自我なんてものが存在して防衛して いるんじゃなくて、『個人』としての作戦だよ。」とか言うんだから、多元論的 な考えから抜けきれない人は「何、言ってんだ、おめえ。」と言いたかったよね。当時の絶対多数の多元論者たちが、アドラーの理論を「劣等感の心理学」とか 「『補償』を研究した」とか「パーソナリティーの成立を子ども時代の環境に求めて、育児や教育に力を入れた」としか捉えきれなかったのがよく分かります (今でも、そうかも)。だって、「人間はホリスティックな存在だ。」っていうのが普及してきたのは、最近だものね。それでも、多元論的に捉えてしまう人が 大多数なんだし。


03年4月10日
 今日、下の娘の小学校の入学式だった。保育園の卒業式を大泣きして卒園した娘は、今日ま で、小学校に早く 行きたいと心待ちだった。朝、支度をしていると、自分だけは早く支度を済ませて、「ねえ、早く小学校に行こうよ。」と矢の催促。娘は、校区外の保育園出身 なので、クラスに顔なじみの子どもがいない。そのことが心配なのは親だけらしい、娘は全く心配していなかった。
 入学式では、初めてあったクラスメイトと手を繋いで入場。名前を呼ばれたときも、うれしそうに大きな声で返事をしていた。退場の時も、ニコニコとうれし そうな顔で手を繋いで退場。写真撮影の時にそばに行くと「パパ。お友達ができたよ。このみちゃんだよ。」と隣の子と仲よさげ。
 うーん、わが娘ながら、社交性が良いのにはびっくり。何とかやっていくでしょう。

 自由保育が気に入っていた遠く の保育園にやって、正解だったかな?

03年4月3日

 数日前に卒業生から相談のメールがあった。今の大学が自分にあっ ていないようなので辞めたいという。
 2日に会って話をした。親は「おまえの好きなようにしな!」と 言ってくれるという。「君って幸せだよ。君の自主意思を尊重してくれる親の元で生まれ て。」と話した。
 世の中には、子どもの人生を自分の思い通りにコントロールしよう として、卑怯な手段(自分じゃ卑怯だと思ってないけど)を次々と行使する親が多い。それ によって、子どもをダメにするか、コントロール幻想を世帯間伝播してしまうのだ。
 当該の卒業生には、「夢があるんだったら、その夢をもっと具体的 な形でイメージしないと実現しないよ。」と話した。簡単に辞めてしまう前にすることがた くさんあると言うことで、話は一致した。将来の夢は、具体的にイメージすることで実現するのだ。
 人にアドバイスしておいてなんだけど、ぼくも自分の将来像につい て、明確なイメージを持とうと決心した。


00年1月6日  
 今回の正月は、Y2Kもあったので、家で過ごしました。ちょっと だけ温泉にも行きました。
最近アドラー心理学の勉強をさぼっていたので、「アドラー」に飢え てきた。
 そうそう、8月のジョセフ・ペリグリーノ博士の講義はおもしろ かった。大胆にもフロイト派の発達心理学をアドラー心理学で説明するんだもんね。彼が言っ た(待てよ、フリードマン副所長が言ったのかな?)「アドラー心理学はメタ心理学です。」っていうのがよく分かった。
 メタ心理学ってことになると アドラー心理学をあらゆる心理学に適用というか、あらゆる心理学を理解するときに使えると言うことになる。フロイト派や交流分析の技術でも理論でもアド ラー心理学にのっとって理解して使用すればいいんだ。

7月14日(水) 
 最近幸せを感じること。朝御飯をつくって「パパ、今日のおみそ汁 おいしかった。」と言ってもらったり、何も言ってもらえなくても、みんなが食べたあとの 食器を洗っている時にほのぼのとした幸せを感じるのです。 
 やっぱしあわせと言うのは、大きなことにあるのではなくて、小さ な日常的なことにあるのだなと思うこの頃です。 

 下の子が熱を出しました。年休を取って、今日は一日娘を病院に連れて いったりしてつきあいました。幸いにも熱はたいしたことなくて大 丈夫だったようです。寝顔を眺めながら安心している父親です。 

 
 
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